徒然日記

Tsubasa Ikoma

「この世」を懸命に生きる為にはどうしても「あの世」を置いて考えていく必要があった

いつもブログを読んで頂きまして、ありがとうございます。予告通り、前回の続きの内容となる記事を書こうと思います。

 

ikoma-tsubasa8.hatenablog.com

(↑前回の記事)

 

前回は、僕自身、己のこころに「死の恐怖」がまとわりついていたという事に気付き、更には「死」という終わりを避ける事は絶対に不可能である以上、どうにかして絶対的な何かを手に入れようとするのではなく、一瞬で過ぎ去る「今、この瞬間」を懸命に生き続けるしか道はないと言う事について書きました。

 

また、「死の恐怖」を自覚するようになってから真剣に、地に足を付けて「この世」とは何か?「人生」とは何か?と言う問いと向き合うようになったという結論で話を一旦締めました。

 

さて、今回はまたそこから改めて話を紐解いてがくのですが、僕がどのようにして「この世」を生きられる様になったのかと言えば、結論から言ってしまえばタイトル通りでですが、「あの世」を想定する様になったからです。

 

ここから先、どうしても非常にキナ臭い話をせざるを得なくなるのですが、あくまでもこれは「生駒 翼」自身が感じている世界観なので、それが正しい事なのだと押し付けたい訳ではありません。僕自身は本心を言えばそれが真実なのだろうと感じ始めているのですが……それを客観的に裏付けて証明する事は出来ません。もしかしたら真実は違うのかもしれません。その事をどうか念頭に置いて読んで頂けたらと思います。

 

では、話します。

 

乱暴に一言でまとめるなら、「死の恐怖」を傍らに置いて生きていた僕は「人生、いつかは『死』という終わりを迎えるし、死んだ後に世に残るものがあるのだとしても、やっぱり最後は『無』に還すのだから、人生には『生きる意味』を見出せない」と、虚無主義ニヒリズム)に陥ってしまう事が多かったです。前回の記事で述べたアイディンティ・グループを通じて「死の恐怖」と直面し、自分で認識出来る様になってからも、掛け替えのない「今、この瞬間」を大切にしながら目の前の現実を精一杯生きていこうと自分を鼓舞し続けたりもしたのですが、それでもやはり、「死」という「終わり」の事を思うとすぐにまた絶望的な気分に陥り、暗くなりました。それでもまた、「今、この瞬間」を精一杯生きようと思い……といった泥沼の悪循環に嵌っていきました。けれども、それでも尚、そうした永遠に引き延ばされた袋小路の様な日常に翻弄されながらも、「何とかしてそこから抜け出したい!」と、心の底ではいつでも切に願っていました。

 

後ろ暗くてジメジメとしたものを心に抱えて生きていく事は否定したくないし、その事に対して臭い物に蓋をする事で「なかったこと」にして安易に処理するような事は絶対にしたくは無いのですが、だからと言って、そういう薄暗い路地裏のココチヨサに甘んじて単に厭世的になったまま生きていれば良い、という訳では決してありません。否定したり、無意味だと言い放つだけならクソ簡単に出来る事ですが、何よりも、そんな事、全くカッコ良くはないんです。

 

では、どうやってそこから抜け出せるようになったのか?

 

最近TSUTAYAで借りて観たアメリカ映画の中に、『オッド・トーマス死神と奇妙な救世主』と言うがあります。

 

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(↑Googleで拾った画像)

 

これはアメリカのベストセラー作家、ディーン・R・クーンツの人気シリーズである『オッド・トーマス』シリーズが原作の映画なのですが、ネタバレを避けて内容を少し解説すると、生まれつき霊を見る事が出来るサイキック能力持ちの“フリーター”ヒーロー、オッド・トーマス(20)がその能力を駆使して町に襲い掛かる災厄から町を救う為に、ひたすら頑張るというストーリーの映画です。

 

オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主:予告動画↓

youtu.be

 

これは友人からオススメされた映画なのですが、笑いあり、涙あり、恋愛あり、サスペンスあり、SFあり、アクションあり、感動のクライマックスあり……と、全方向において僕を楽しませてれた超当たりのエンターテインメント映画でした。何よりも、町を救う為に自らを省みずにひたすら頑張るオッド青年の姿には素直に応援したくなる清々しさがありましたね。「とある魔術の禁書目録」の主人公、上条当麻によく似た匂いがしますね……しつこいかもしれませんが、オッド君は洗練されたテクニックなどなくひたすら頑張るだけです。そして、そこが良い。

 

後、何よりもオッドの恋人であるストーミーが超可愛い

 

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(↑ストーミー(右側))

 

で、今回お話したいのはその劇中のオッドの恋人、ストーミーが言った台詞なのですが、彼女は劇中でこういう言葉を言い残しました。

 

「この世」は謂わば修練場みたいな場所なの。人は皆、人生を通じて次の世界の様な場所に行く為の魂の修業を積んで生きているのよ。”

(『オッド・トーマスと奇妙な救世主』吹き替え版より一部改変して引用)

 

この映画を紹介してくれた友人が、僕がこのDVDをTSUTAYAで借りてきて観る直前に、偶々、Twitterで僕がこれと同じ台詞を言っていた事に驚いたと教えてくれました。

 

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↑その時の呟き

 

その直後、僕もこのDVDを見始め、自分が何気なく呟いた文章とほとんど同じ台詞を劇中のヒロインが喋っているのを観て、驚きました(所謂、シンクロニシティと呼ばれる所以の奴なんですかね?)。

 

丁度、同じ時期に、僕も本格的にこういった事を考え始めるようになりました(正確にはもっと前からですが)。自分が生きているこの「人生」には、何か揺ぎ無い意味が付与されているのではないのか?「この世」というのは本当に刹那的な存在でしかないのか?いや、何か意味があってほしいと切実に願い始めるようになりました。

 

そうこう考え、試行錯誤しているうちに、自然と「この世」の意味を定義する為に、謂わば「あの世」に思いを馳せ始めている自分を発見しました。いや、正確には、本来の自分に戻って来た感じがあります。

 

少し話が脱線しますが、僕はスピリチュアル系の本、特に「引き寄せの法則」などにかなり傾倒していた時期が過去にあります。それは、中学時代なのですが、丁度大量に本を読み始めた時期とも重なっており、また元々海外に居た頃はヒンドゥー教の寺院や仏教の聖地などに沢山観光で訪れていた事から神秘的なものに対して親近感を覚えていた為、塾帰りによく御茶ノ水丸善で目に付いた怪しい本を出来る限り立ち読みしたり購入したりしていました。他にも、地元の図書館で塾の社会の先生から教わった『チベット死者の書』『呪術師と私ードン・ファンの教え』と言った有名な呪術本を借り、内容をよく理解できないながらも夢中になって読んでいました(そう言えば苫米地さんの『洗脳護身術ー日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修業と自己解放』を読み込み始めたのもこの時期だったな……)

 

結果的に当時の中学時代の生駒少年は、一旦、そういった宗教的、スピリチュアルな話を自分の中に封印し、「科学」に身を置こうと決める事になったのですが、それも認知科学者、苫米地英人

 

『宗教は二十歳から』

 

と言う台詞の影響が大きいです。ICUで最終的に哲学・宗教学ではなく心理学を専攻したのも、「科学」的な思考法や枠組みをきちんと型に嵌ってまずは身に着けようと思ったからです。そして、成人を迎え、心理学の研究法の授業も(一通り身に着いたかどうかはさて置き)終えた僕は、無意識の枷が外れたのか(いや、単にタイミングが一緒だっただけですね)、「あの世」と言った怪しい話を再び考える様になりました。改めて、大学生になってから卒論の傍ら、上に述べた本を読みなおしたり、臨死体験や高名なヨガ行者の本などを読み込んだりしたのですが、まあ、何と言うか……非常に面白いんですよね(笑)。

 

例えば、『生き甲斐の創造』という有名なベストセラー本があるのですが、この本では古今東西にある臨死体験や輪廻転生などの話を集める事で、「人は産まれる前に、次の人生で自分の果たすべき使命を神との相談を通じて決め、両親を自分で選んで自らの意志を持ってして生まれる」と言ったストーリーを展開したりしています。

 

そんなこんなで、「あの世」と向き合う内に、翻って「この世」と向き合うようにもなりました。もしも「人生」が修業なのだとしたら、困難や試練が一生続くのだとしても、それを何とか乗り越えて生きていこうと思えるし、そんなに詳しい訳ではないのですが、キリスト教の宗教用語にある"calling"、噛み砕いて訳すと「神のニーズ」「神に期待されていること」といった神に誓って成し遂げるべき使命に準じて生きていく姿勢も、僕の目には魅力的に映るようになってきました。

 

さて、色々と小難しい事を話してきましたが、序盤にも述べたように、以上に僕が述べた事が正しいかどうかなんてことは分かりません。僕は死んだ事は無いですし、例え臨死体験を経験していたのだとしても、それが死後の世界を経験した事を保証するものではないですし、「あの世」の論理で「この世」を蹂躙するのはカルトと言わざるを得ません。

 

また、そうやって宗教性を盾にして人生を語るのは、ともすれば宗教に癒しを求め、現実逃避を行い続ける軟弱な姿勢に見えるかもしれません。僕自身、「あの世」の事ばかり話して「全ては赦されている」とか「今はタイミングではない」とか自分に都合の良い事ばかり言ってしまう姿勢には正直、嫌悪感すら覚えます。

 

けれども、現にこうして「あの世」であったり、神を信じ始めている自分が居る。それならば、それが正しいかどうかはともかくとして、

 

「神を信じ始めている自分」を自分が信じてやろう

 

と思うのです。それはつまり、信じ始めているのは神ですが、信じる主体と信じる客体はあくまでも自分なんです。

 

ここまで、ざーっと僕の死生観の様なものをお話しましたが、割愛した話なども多い為、もしかしたら理解できない部分などもあるかもしれません。終盤で急に「あの世」の話から神の話に代わりましたが、神を信じ始める最後のきっかけとなったもう一つの存在については今回は触れていない為、急に話が飛んだように感じるかもしれません。ですが、もうその話をするのはテーマが大きく変わって来ると思うので、またの機会に。

 

一先ず、「あの世」を置く事で「この世」を日々精一杯生きる様になったという事だけお伝えする事が出来れば良いかなあと思っています。

 

最後に、椎名林檎の曲の歌詞を一つ引用させて頂きたいと思います。

 

噫また不意に接近している淡い死の匂いで

この瞬間がなお一層 鮮明に映えている

刻み込んでいる あの世へ持って行くさ

至上の人生 至上の絶景

椎名林檎『NIPPON』より引用)

 

いつか訪れる最期の日に、至上の人生を「あの世」に持っていくべく、これからも命を燃やして生きていこうと思います。

 

 椎名林檎 - NIPPON↓


椎名林檎 - NIPPON

 

 これを持ってして、前々回から引き続いて書いていた一連の記事は終了となります。

 

明後日4月1日には入社式を迎えて新社会人になり、これから忙しくなってくるとは思いますが、ブログは自分のペースでまた続けていきたいと思いますので、どうかよろしくお願い致します。

 

最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました!

 

『オッド・トーマス死神と奇妙な救世主』は本当に面白い映画なので、是非ともTSUTAYAでレンタルして観てみてください。

 

それでは!

 

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質問・感想などはコメント欄かこちらのメールアドレス(tsubasaikoma0@gmail.com)まで連絡をして頂けたらと思います。必ず読ませて頂きます。

 

「終わりなき人生」の終着点は何処にあるのか?「何者」かになっても人生が無慈悲に続いていく中で……

『何者』かになっても人生が続いていくという現実があり、その事実に対する無力感に打ち拉がれた」という事について、前回の記事では書いていきました。

 

ikoma-tsubasa8.hatenablog.com

 (↑前回の記事)

 

そして、前回の最後の結論として、僕は「未来」を見る事を一旦止め、「過去」から「現在」も含めた「自分」と真に向き合っていく事になったと書きました。

 

「向き合おう」と思って向き合い始めたというよりかは、必然的に向き合わざるを得ない状況に陥った……それも偶然の出会いがきっかけとなりました(不思議ですね。これもまた「縁起」なのでしょうか?)。

 

丁度、前回書いた様な事実を知るようになった大学三年生の春のことです。

 

大学二年の終わりにメジャー(専攻)を心理学と選択した僕は、それまでに勉強し続けてきた認知科学認知心理学)の学問領域に正直、ウンザリしていました。

 

元々、ICUに入学した理由も含め、認知科学を勉強し始めた背景には認知科学者の苫米地英人の強い影響があり、将来は彼の様に「海外の超一流大学に行ってPh.Dを取ってやる……!!!」と豪語していましたが、ある時、とてもお世話になっていた方から、

 

『君は留学して学問を究めたいのか? それとも単にPh.Dという肩書が欲しいだけなのか?』

 

と、問われました。

 

その質問にショックを受けた僕は、その時に何も言い返す事が出来ませんでした。

 

しばらく経った後に、僕は、

 

「ああ、何だ。俺ってただ肩書が欲しかっただけじゃん……」

 

という事に気付きました。そうです。「苫米地英人」の様に「何者」かに成りたいという願望を抱いていただけだという事と直面化させられたのです。

 

そこからは、勉強に対するモチベーションがほとんど無くなってしまいました。当時まで、何とか睡眠時間を削ってでも勉強をし、GPA(成績)も飛びぬけて良いと言わずとも、そんなに悪くない水準(3.00以上)は最低限保っていられるように、どんなに難しい数学の授業などを取っても何とか食らいついて頑張っていたのですが、勉強する意義を見失い、アメリカの留学選考にも落ちてしまった事からGPAも意味を成さなくなり、その結果、勉強に熱を出せなくなり、見る見るうちに成績は下降していきました……

 

「これ以上、もう認知科学を勉強したくない」と言うのが僕の偽らざる本音でしたが、それでも、心理学の分野で一年後には卒業論文に取り組まなければいけないので、何とかして他に(心理学の中で)良い分野が無いかと授業を探し、まだその時履修していなかった臨床心理学(Clinical Psychology)の授業を取る事となりました。

 

そこで、後に卒業論文の指導教官となる先生と初めて出会う事となり、フロイトを源流とする精神分析や自我心理学(ego psychology)の世界に触れ始めたのですが、ある時、その授業の中で先生も所属するPAS心理教育研究所が主催する大学生向けの「インターカレッジ・キャンパス・アイデンティティ・グループ」と言うものが募集されました。

 

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アイデンティティ・グループの説明を簡単にすると、以下の引用の様になります。

 

アイデンティティ・グループとは、集団精神療法の手法を応用した心理教育プログラムで、5-8名の小集団の中で、グループ・セラピストと共にアイデンティティの探求を行います。
自分に対する期待・関心を基点に、より自分らしさを広げ、深めていけるプログラムです。(引用元:PAS心理教育研究所

 

前回の記事でも書きましたが、青年期はアイディンティの危機を迎える段階(phase)にあると言われており、特に現代の様な無茶苦茶なグローバル化、情報化の時代では猶更アイディンティ拡散の危機に直面しやすいです。そこで、訓練を受けたプロのセラピストと共にアイデンティティの探求と確立を意図的に進めていくというのがこのアイデンティティ・グループでした。

 

授業を受けていた当時、僕はそれまで言ってしまえば「『心』は存在しない。全ては『関数』である」と、機能主義(functionalism)で「心」を捉える認知科学に傾倒していた為、まだ精神分析や自我心理学、心理療法(psychotherapy)に対して非常に懐疑的だったのですが、何だかすごくそれに惹かれるものがあり、思い切って飛び込んでそのアイデンティティ・グループに参加する事にしました。

 

そこでの内容、どんな事が行われたかについては、極めて厳格な守秘義務が課せられている為、ここでは詳しく書けません(このアイデンティティ・グループの情報そのものも、問題があればすぐ様、削除します)。

 

一言だけ言うならば、文字通り己のアイディンティティと向き合ったのですが、その結果、僕は、自分は無意識の内に、強烈な「死の恐怖」を抱えているという事に気付く事となりました。

 

他にも、「承認欲求」や「表現欲求」、「成長意欲」など、様々なものが眠っているという事などにも気付いたのですが、何よりも大きかったのがこの、「死の恐怖」でした。

 

その事については……本当にシビアな問題で、僕も書くとしたら命懸けで書く事になるので、また改めて別の機会に深掘りしていきますが、一つだけそれについて説明するなら、それは僕の幼少期に過ごした環境が関係ある言えます。

 

過去にも言った事がありますが、僕は帰国子女です。3歳~10歳までの7年間、僕は父親の仕事の都合でシンガポール、インド(ニューデリー)、スリランカコロンボ)と主に発展途上国の海外三ヶ国に住んでおり、それぞれの日本人学校を転々としながら過ごしてきました。

 

そして、シンガポールは違いますが、インドやスリランカ、特にインドに居た頃なのですが、僕は貧困テロ差別というものを間近に見ながら育っていきました。

 

そして何よりも、インドの首都ニューデリーの町並みには、日常的に“死”が生活の傍らに横たわっていました。

 

この経験について書くのは、今回はこの辺までにしておきます。深掘りはまた別の機会に(書いていると本当にシンドくなって来るので)。

 

ともかく、おそらく自分は普通に日本で産まれて日本で育って来た人と比べて、“死”に対するリアリティが圧倒的に違うのだと、自分を特別視するでもなく客観的に捉えられる様になりました。そして、自分はその事に対し、酷く恐怖しているという事を知りました(正確では無いかもしれませんが、タナトフォビア(別名『死恐怖症』)などとも呼ばれていますね)。

 

さて、前回の記事で僕は、「終わりなき日常」「終わりなきゴール」「終わりなき人生」などと、繰り返し「終わりなき~」という言葉を使っていました。

 

けれども、本当はこれは全て間違いであると言えます。なぜなら、真実は、

 

「『終わりなき~』なんてものは存在しない。何故なら、誰しもが必ず『死』と言う『終わり』をいつか迎える事となるから」

 

と言う事が、正しいからです。

 

その事実を誰よりもよく自分は知っていたからこそ、何とかして、自分はそこから逃れたかった……!のだと思います。

 

「(目標やゴールを目指す事で)『何か』から逃げ続けている」と、前回の記事で言った「何か」の正体とは、「死の恐怖」の事でした。

 

正確に言えば、「死の恐怖」だけではありません。「劣等感」や「(将来への)不安」、「コンプレックス」や「寂しさ」など、そうした「負の感情」全般から逃げおおせる「何か」が欲しかったのだと思います。全てを救済してくれる「何か」……メシア(救世主)願望に近いです。

 

その後、僕は本当の意味で「人生」とは何か?「この世」とは何か?と言う問いと、等身大の自分を持ってして向き合い始める事が出来た気がします。

 

諸行無常の世の中と言うのは正に本当の事で、如何なるものも永続的に続くものは存在しない。言ってしまえば過ぎ去っていく「今、この瞬間」を一瞬、一瞬、大切にしながら生きるしかない。

 

その事を、強く意識し始めました。

 

けれども、そこから本格的に、積極的に「生きる」と言う選択が出来るようになるまでには、また、1~2年以上の長い時間が掛かりました。

 

では、「死」からは逃れられない、「終わり」からは逃れられないと知った「生駒 翼」は、それから如何にして人生に意味を見出して生き始める様になったのか?

 

それについては、また次回の記事でお話しさせて頂く事としましょう。

 

この話は前後編で終わらせるつもりだったのですが、それに加えてもう一本、上中下、序破急と三部作にする必要が出てきてしまいましたね。

 

四部作……の可能性もあるかもしれません(笑)。

 

関係無い話ですが、明日は大学の卒業式です。

 

ハリーポッターに出てくるようなガウンと帽子を着て参加するので、気が向いたらこのブログにもその様子を載せるかもしれません。

 

それでは、また次回に!

 

今回も、最後まで読んでいただきましたありがとうございました。

 

 続き↓

ikoma-tsubasa8.hatenablog.com

 

 

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「何処か」に行って「何か」を得て「何者」かになれば人生は全て上手くいくと思い込んでいた

 

去年『何者』と言う映画が話題になりましたね。

 

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この映画を僕は観ていないのですが、直木賞受賞作である原作小説は映画公開前に読んでいました。

 

簡単に内容を説明しますと、就職活動を迎えた大学生達が、「何者」かになりたいと必死にもがいていく中で、今まで何とか誤魔化し、辛うじて体裁を保ってきた醜悪な自意識が露呈し、それと同時に迫りくる現実と向き合う中で自己愛空想の鎧が剥がれ、挫折を繰り返す中で身の程を知らされ、「何者」にもなれない自分を痛感するという何とも読んでいて返り血を浴びる様な救いようの無い痛々しい物語でした(ささやかな救いが最後には残されていますが……)。

 

この本を読んでいた当時、僕は就活を間近に控えていたという事もあり、正直、心をえぐられたし、不快な気分にさせられました。

 

以前読んだインタビュー記事の中で著者の朝井リョウが「(現代社会の)雑音を拾い上げたい」と話していましたが、そういう意味では読んでいて本当にムカつく位、その意図は物語中によく反映されていたと思います。

 

で、そもそも、何で、当時この本を読んでムカついたりしたのかと言えば、それは僕も小説の登場人物達と同じで心の何処かで「何者」かになりたいという願いを抱えており、実際には「何者」でも無い(世間に認められていない)自分に対する強烈なコンプレックスが刺激されたからなのだと思います(今でも「何者」かになりたいという願望はあります)。

 

こういう小説や映画が世間で売れるという事は、この日本社会の中で、「何者」かになりたいと切に願い、もがき苦しむ人達、特に若者が一定数存在するという事はおそらく事実なのでしょう。

 

その心理学的な背景を一つ挙げるとすれば、発達心理学者であり精神分析家のE.H.エリクソンが述べた、青年期(11-19歳、もしくは現代では18~30歳など諸説あり)の発達課題であるアイデンティティ(同一性)の確立(”私は何者で、何者で居られるのか?”)が深く関係していると思います(参考:E.H.エリクソン著『アイデンティティとライフサイクル』)。

 

他にもそういった社会現象が起こる理由などに関して、様々な分析が加えられている事だと思いますが、今回はそういった社会背景みたいな大きいものに触れる気はありません。

 

今回触れるのは、僕自身のこと。

 

社会があーだこーだと大上段に構えて批評を重ねていくのは無責任で忍びない事この上無いですが、僕が思う僕自身のことについてなら、何を書いたとしても概ね差支えは無いでしょう。

 

「生駒 翼」が「何者」かになりたいと願っていた中で考えたこと、感じたこと、気付いたこと等について、今回は書いていこうと思います。僕個人の話ではありますが、何かしら得られるものはあると思います。

 

さて、前置きが長くなってしまいましたが、まず「何者」かになった後、人生はどうなっていくのか?と、読者のあなたに問いかけてみたいと思います。

 

その前に「何者」の定義なのですが、ざっくりと「ある程度の地位や実績があり、社会的な信用も得られている人」とここでは定めておきます(もしくはそれぞれの思い描く「何者」のイメージで構いません)。

 

例えば、ビジネスセンスを磨いていく中で独立起業をして年商100億の社長として世に名声をはせたり、欧米の超一流大学に留学し、猛勉強の末に念願のPh.Dを獲得し、博士になる事ができたり、卓越したセンスと秘められた才能を駆使していく中で誰もが羨むアーティストになることに成功したとします。

 

見事に、「何処か」に行って「何か」を得て「何者」かになる事が出来ました。

 

さて、先ほどの問いの繰り返しですが、「何者」かになった後、その人の人生はどうなっていくのでしょうか?

 

独立起業をして年商100億の社長になった人は、その後も順風満帆に会社の経営を続けるかもしれませんし、せっかく起業した会社も不況の煽りを受けてすぐに倒産するかもしれません。

 

Ph.Dを獲得した博士は、研究の成果が学会に認められていくかもしれませんし、学会から追放されて就職先も見つからず、碌な保障も無く不安定な生活を余儀なくされるかもしれません。

 

誰もが羨むアーティストになった人は、その後も持ちうる才能を存分に発揮し続け、素晴らしい作品を世に残していく事になるかもしれませんし、才能が枯渇して新たな作品を産み続けるのが困難となり、時の人として世間から忘れ去られていくかもしれません。

 

もしくは、大衆に認められなくても、知る人ぞ知る特異な人になるかもしれませんね。

 

言ってしまえば、以上に述べた事は全て僕の妄想であり、実際にはどうなるかなんて分かりません。

 

ただ、以上全てにおいて共通して一つ確実に言える事があります。

 

それは、少なくとも死なない限り、その人の人生が続いていくということです。

 

文字通り、どんな状況に陥っても、人生は続いていきます。

 

そうやって続いていく人生の中で、楽しい事もハッピーな事もたくさん起こると思いますが、当然ながら、今度は今まで直面してこなかった新たな問題や苦労にぶつかっていく事になるでしょう。

 

『いや、そんな事は無い。「何者」かになったのだから、もう問題なんか起きないし、二度と悩み苦しむ必要は無くなる!!』

 

と、反論される方もいらっしゃるかもしれませんが、多分、問題が無くなるなんてことはあり得ません。

 

「何者」かになった事で、今まで「問題」だと思って来たこと(例えば経済状況や承認欲求など)が解決されたとしても、今までのレベルでは対処しきれなかった新たな「問題」(例えば経営課題や他者貢献など)が産まれると予想できますし、既に解決された「問題」で満足をし、何も悩まずに現状維持を続けていれさえすればいいと願ったのだとしても、悲しいかな。このタービュラント(乱気流)な時代においてその願いが叶えられる事はありません。実際には個人も社会も急激にドラスティックに変化していきますし、その為、現状維持をするにも闘争が必要となってしまうからです。

 

「この世」を生きる限りは生き続ける必要がありますし、社会学者の宮台真司もよく言っていますが「これさえあれば……!!!」というものなんて「この世」に何一つ存在しません。

 

僕自身、大学に入るまでずっと、「何処か」に行って「何か」を得て「何者」かになれば人生は全て上手くいくのだと心の何処かで思い込んでいましたが、実際には何かを成す度に、

 

「『夢』を叶えたら、ただの『現実』だった……」

 

「こんなはずじゃなかった……」

 

「ここでは無い『何処か』に行きたい……」

 

などと、「幻滅」を繰り返して来ました。そして、例え「何処か」に行って「何か」を得て「何者」かになれたのだとしても、人生は続いていくものですし、

 

「自分」からは、「人生」からは、一生逃げる事が出来ない

 

という事実を認めざるを得なくなりました。

 

今ここで、「逃げる」という表現を使用しましたが、僕自身、「幻滅」の経験を繰り返す中で「自分はずっと『何か』から逃げ続けている」という事に気付くようになりました。

 

その話を深掘りしていくのはまた別の機会に譲るとして、コーチング、特に苫米地式コーチングやTPIEの世界では、こうした問題に対処する為に、

 

「『ゴール』を達成する前にまた新たな『ゴール』を設定していき、それを繰り返していく事で『ゴール』に向かう為のエネルギーが尽きないようにする」

 

事の重要性を述べていますがそれでも、少なくとも僕は、そうしたやり方は「終わりなき人生」を生きる為に「終わりなきゴール」を設定する対処法でしかないと悲観的に感じざるを得なかったのです(但し、同時にTPIEでは「ゴール設定」を繰り返す中で人生を賭けて追い求められる「本当のゴール」を見つける事が本質にあると述べています)(参考:苫米地英人著『コンフォートゾーンの作り方【聴くだけで目標達成できる!CD付き】~図解TPIEプログラム~』Unit19)。

 

はっきりとした時期が決まっている訳では無いですが、僕がこうした事実を認め始めたのは大体、大学二年生の終わり頃だったと思います。

 

ICUでのメジャー(専攻)の選択も終了し、興味のある授業を片っ端から取っていき、大学から始めたギターでバンドを組んで文化祭でライブをやり切り、高校時代から会ってみたかった人達とも実際に会えて人脈が築かれていき、そして、アメリカへの留学専攻に落ちた頃でした。

 

 当時は本当に全てが無意味に思え、正直に言えば何もしたくなく、無気力と無力感を抱えながら、ゾンビの様に死んだ目で灰色の日々を過ごしていました。

 

正直に言えば「人生」そのものが、まるで牢獄の様にも感じられました。

 

それに対して「無意味な人生に自由な意味を見出して生きていこう」とする生き方、所謂仏教で言うところの「空観」「仮観」「中観」の考え方もありますが、どう頑張っても受け入れる事が出来ず、僕にはそれが「苦し紛れの処世術」の様に思えて仕方がありませんでした。

 

もしくは、「人間なんて、難しいこと考えないで美味い物食って笑っていられればそれで良いじゃないか?」という考え方も、分かると言えば分かるのですが、やはりそれも何故だが受け入れる事が出来ませんでした。

 

他にも、「遠くに行ったり、特別な人にならなくても、今目の前にある『日常』を大切に生き、身近な所から『美しさ』を見出す事ができる感性を磨く事の方が大事」という考え方もありますが、そういう「終わりなき日常」を生きる事も僕には出来ませんでした。

 

「何処か」に行って「何か」を得て「何者」かになるだけでは人生を「生きる」事が出来ない。「何者」かになりたいという願望その物を抱く事自体、否定する必要は無いけれども、それだけを突き詰めていくと、いずれ、「破滅」をもたらす事は火を見るよりも明らかだ(これについてもまた別記事で深掘りをしていきます)。

 

その事に気付いた僕は、先を見る事、「未来」を見ることを一旦止めました。

 

そこから僕は、「自分」と、つまりは「過去」と「現在」も含めた「生駒 翼」と真に向き合っていく事となりました。

 

その結果、何を掴み、何を失い、何が残ったのか?

 

そして、どの様にして僕は「生きる」道を選択できるようになったのか?

 

それについては次回の続きの記事で書く事にし、長くなってしまったので今回はここまでにします。

 

近日中に続編を公開できる様に努力しますが、どうか末永くお待ち頂けたらと思います。

 

それでは、また改めて!

 

続きを更新しました↓(2017/03/22追記)

 

ikoma-tsubasa8.hatenablog.com

 

 

質問・感想などはコメント欄に書いて頂くか、こちらのメールアドレス(tsubasaikoma1@gmail.com)まで送って頂けたら喜びます(笑)。

 

 

ICUの卒業論文を公開しました~アカデミックSNS【CurioCity】~

お待たせしました!

 

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前回のブログで予告していましたが、僕のICUでの卒業論文、『身体同一性尺度の作成の試みーDevelopment of the Body Identity Scale』を友人のDAIが作成したアカデミックSNSに投稿しました。

 

以下がそのサイトであるCurioCityです。

 

www.curiocity.tech

 

FBページはこちら

 

以下、引用です。

 

このアプリは、ネット上で自分の書いた論文を共有して、他のユーザーの面白い論文を読んだり、コメントができます。興味をもったユーザーに対しては、コンタクトリクエストを送ることができ、相互認証されたときに実際の連絡先を交換し、実際に出会うことができます。多様なバックグラウンドの人と、メジャー、学年の垣根を超えて、アカデミックな議論や出会いができるプラットフォームとして利用していただけると嬉しいです。(【CurioCity】より引用)

 

DAIに確認した所、ICU生でなくともFBのアカウントがあればログインして論文にアクセスする事が可能みたいです。現在はICU生向けのアプリとなっていますが、ゆくゆくは他大学、一般人と共有範囲を広げていきたいと考えているようです。

 

CurioCityは、DAIが初めてリリースしたアプリで思い入れが深いらしく、彼も日々、改良してより良いアプリにするべく奮闘しているので、一人の友人として、彼の事を応援して頂けたらと願います。

 

僕の卒論に興味を示してくださった方は、CurioCityにアクセスして、【心理学】のユーザーの中から「生駒 翼」を探していただけたらと思います。そこに、僕の卒業論文身体同一性尺度の作成の試みーDevelopment of the Body Identity Scaleが公開されてあるはずです。

 

一先ずそのまま公開をしますが、卒論の内容などに関しては調査協力者へのフィードバックを完了し次第、また中身を嚙み砕いてブログで説明などしたいと思っています。

 

質問などありましたら、出来るだけお答えしたいと思いますので、コメントかメール(tsubasaikoma1@gmail.com)を頂けたらと思います。

 

以上です。

 

ではまた、改めて。

卒業論文の提出 〜『身体同一性尺度の作成の試みーDevelopment of the Body Identity Scaleー』〜

FBからの転用です。

 

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今更の報告になってしまいますが、2月の初旬に卒業論文を提出して来ました。

テーマは『身体同一性尺度の作成の試みーDevelopment of the Body Identity Scaleー』です。

身体同一性(body identity)とは、「『自分の身体を自分のものにする』という身体感覚・身体能力の支配感覚、身体そのものが喜ぶ感覚、身体構造にかかわる肯定的感覚に、自分自身を同一視できる能力」と定義されるもので、一言で言えば「身体性」の事を言います。

現代人は、IT依存社会などの影響で、この身体同一性を確立出来ずにそのまま大人になってしまっている人々が多く、その結果、知らぬ間に様々な問題が生じていると言われています。

今回は、この「身体同一性」を正確に測る為の質問紙を作成しようという内容の卒論でした。

調査にあたっては、フロイトやE.エリクソンなどを源流とする欲動論や同一性の研究を洗いざらい調べてみたり、離人症(depersonalization)と呼ばれる心気症の症状と身体同一性との関連などを調べることで、理論の整備を行い、本調査を行いました。

このテーマを選んだ理由は、そもそもが自分のコンプレックスから来るものでした。

昔から、運動はあまり得意ではなかったし、頭で考える事はある程度出来ても、それを現実世界で身体性を持ってして表現する事が全然出来ませんでした。

更には、時々、『自分の身体がどこにあるのか分からない……』と、身体感覚を見失う事が多く、例えば、音楽でも、ボーカロイドの様な身体性を外した「オンガク」は聴くことが出来ても、普通の音楽の生演奏やライブとかを聴いても、何をやっているのかがよく分からないし、そういう場で素直に「音楽」を楽しんでいる人を見て、心底羨ましく感じたし、いたたまれない気持ちによくなりました。

そういった過去に自分が経験し、そして今でも経験する事のある現象が、一種の「離人症」と呼ばれていたり、またはそれが起こる原因の一つに、「身体同一性」の発達不全があると、授業や本を通じて知りました。

他にも、大学生になってギターを始め、ライブをやってみたり、某元カリスマナンパ師のワークショップを受講したり、太極拳をやって来たことも深く関係して来ています。

 

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コンプレックスと正面から向き合った為、この一年間の卒業研究は、どちらかといえばシンドイものでしたし、自己嫌悪との戦いでもありました。

また、研究の結論を言えば、統計的には仮説通りの意味のある結果が出たのですが、ゼミ内の最終発表では、そもそもの理論の定義の仕方や、調査方法の甘さを指摘され、学術的にはあまり価値の無い論文となってしまいました。

最終発表でゼミの皆や先生に(愛の鞭で)ボコボコにされ、相当落ち込んで、しばらくはこうして報告も出来なかったのですが…………それでも、現状の自分の未熟さを甘んじて受け入れつつも、そこで得た学びを放り捨ててしまわないで、少しずつ、周りの人にシェアする義務と責任があるなと今では思っています。


近々、友人が開発した卒論をシェアするアプリに自分の卒論も投稿する予定なので、それが出来たらFBやブログを通じてシェアをし、詳しい説明などをしようと思っています。

また、この卒業論文を持ってして、アカデミックな世界とは一旦縁を切る事になりますが、僕自身の人生はまだまだ続くものでありますし、自分の身体同一性(body identity)とはまだまだ向き合う必要があります(その次に性的同一性や職業的同一性といった課題も待ち受けています)。

その為、一先ずは、もっとちゃんと身体を鍛え、自分の全潜在力を扱える様になる為に、自分の身体の運用能力を高めていきたいと思います。

最後になりますが、調査に協力して頂いた206名の皆さん、本当にありがとうございました!希望者にはこの後アンケートに書いて頂いた連絡先にフィードバックを送らせて頂きます。

また、こんな危うい自分の研究を最後まで応援し、時には耳に痛いアドバイスも下さったゼミの先生やゼミ生の皆にも、改めて、この場を借りて感謝の意を伝えさせて頂きたいです。ありがとうございました。

以上です。

ではまた、改めて!

 

連絡先:tsubasaikoma1@gmail.com

 

 

近況報告、及び生存報告など

ご無沙汰しております。生駒です。

 

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今、確認して見たら、最後にブログを更新したのが丁度約1年前になっていて、久しぶりの更新になってしまいましたね。

 

 

ikoma-tsubasa8.hatenablog.com

 

(↑最後の更新記事)

 

一先ず、近況報告などさせて頂きたいと思います。

 

まず、就職活動なのですが、艱難辛苦・紆余曲折経た上で、とある大手の教育系の企業から内定を頂き、4月から働き始める事になりました。

 

学生生活は、今、最後の春休みを迎えており、先日も1年掛けて書いた卒業論文を大学に提出して来ました。

 

他にも、今はとある珍獣が集まるミニ動物園(ペットショップ?)で諸事情あって働かせて頂いたりしております。

 

他にも、色々と有るのですが、詳しくはまた改めて別記事を書こうと思います。

 

さて、この長らく放置してしまっていたブログなのですが、また改めて書き始めようと思います。

 

何も手をつけていなかったのですが、それでも毎月100〜200人以上の方々がこのブログの過去記事を読んでくださってたようで、とても嬉しいです。

 

もう時期学生から社会人になるので、書いていくテーマや雰囲気は変わっていくかもしれませんが、また書きたい事がポツポツと出て来たので、少しでもこの場を借りて色んな人と僕の経験や知識などを共有していきたいと思っています。

 

また、ブログを放置している間にメールなどに連絡を下さり、返信を返せずに居た皆様、本当に申し訳ございませんでした。

 

このブログ用に作成していたメールアドレスへの連絡に気付かず、結果的にスルーをしてしまっていました……

 

もしもまた連絡が取りたい方がいらっしゃれば、お手数ですが今度はコメント欄かこちらのメールアドレス(tsubasaikoma1@gmail.com)まで連絡を頂けたらと思います。

 

一先ず、この記事はここまでにします。

 

また改めて別記事を書いていこうと思いますので、よろしくお願い致しますm(__)m

 

ブログを書いていて嬉しい瞬間の一つは過去記事が検索されて読まれること〜「機能」は永遠に生き続ける〜

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↑画像はイメージです


今朝、FBのメッセージ欄を確認してみた所、知らない方からメッセージが届いて、「何だろうな……?」と読んでみた所、どうやらこのブログの過去記事を読んで下さった方の様でした!

その方が読んで下さった記事はこちらですね。


マークシューベルト氏に関して検索をかけたらこの記事が出て来たみたいです!何とビックリ(O_O)

こういう瞬間に「ブログを書き続けて良かったな。無駄では無いんだ」と思う事があります。

あらゆる媒体に言えることかもしれませんが、ブログの良い所は、一度書いたものが後世に残るという事ですね。

少し大きな話になりますが、いずれ僕は「死」を迎え、この世から消え去ります。

どれだけこの世で超越しようが、影響力を発揮しようが、何かを手に入れようが、僕はいずれ必ず消滅します。

それはとても儚いし虚しいものだなぁと、今でも思う事はあるのですが、だからと言って悲観的になる必要はありません。

なぜなら、僕が「死」を迎えたのだとしても、僕が世に残した「機能」は受け継がれていくからです。

今回の例で言えば、僕が四ヶ月前に書いたブログが、今になって読者に検索され、読まれた事で一つの「機能」を果たしてくれました。

僕はこの間、この記事に関して言えば何もしていません。

それでも、ちゃんと「機能」が果たされているのです。

僕がいずれ「死」を迎え、居なくなるのだとしても、僕の残した「機能」は永遠であるとも言えるのです。

けれども確かに、いずれ誰にも読まれなくなり、ブログそのものの「機能」も事実上消失する事になるかもしれません。

しかし、少なからず僕のブログを読んだ人には何かしらの影響を与える事となり、その人がまた何か別の「機能」を果たす事で、形は変わっても僕の残した「機能」は受け継がれる事になるのです。

そう考えると、やはり残した「機能」は不変では無くとも永遠であると言わざるを得ません。

良し悪しはともかく、僕はそうやって「機能」が受け継がれる事に一つの達成感を覚えるのです。

よく、苫米地英人さんが「機能」「縁起」「役割」「仕事」と言った表現の仕方でこの事を本で述べていますが、僕も彼の影響、つまりは「機能」を多分に引き継いだ上でそれに同感するのです。

「存在」に拘ると、どうしても儚く、虚しくなります。

僕という「存在」も、このブログの「存在」も、いずれ必ず消え失せます。

けれども、そこで残した「機能」は少なからずずっと後世に受け継がれていきます。

僕自身、やっぱりまだまだ青二才なので、「存在」に拘る面は正直言って凄く強いのですが、それでも、時たまこうして、「大事なのは『機能』である」という事を思い出し続けたいと思います。

ともかく、まとめると、ブログを書く事も無駄では無く、ちゃんと「機能」が引き継がれているという事が分かりました。

引き続き、この世の中に残していきたい「機能」を意識しながらブログを書いていこうと思います。

ではでは、今回は、この辺にて。

バイバ〜イ♪

質問・感想などがある方はこちらのコメント欄に気軽にお問い合わせ下さい(^人^)