徒然日記

徒然なるままに日々思ったことを書き連ねるブログです。

なぜ死んではいけないのか?〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想⑤〜

前回の続きです。ラスト10分に起こった出来事を少しお話します。

「心のDNA」の育て方~夢と目標を実現する7つの心理セラピー~(CD付)

「心のDNA」の育て方~夢と目標を実現する7つの心理セラピー~(CD付)

 

質疑応答の中で、僕は石井さんにある質問をしました。簡単に言えば、

 

「世の中には、"善"と呼ばれるものが存在するのか?」

 

という問いでした。

 

いわゆる、前回話をした物質中心主義の体(たい)的な考え方によれば、全てが相対的に捉え、切り分けられるので、正しいものなど存在しない。全ては見方や立場の違いでしかない、となります。

 

一方で、輪郭を付けない霊(れい)的な捉え方をするとどうなのか?人は個人ではなく、目に見えない存在の守護を受けながらチームとして"課題"の解決に向けて生きているのだとすれば、その"課題"が目指す方向はアプリオリ(絶対的)な善と言えるのではないか?

 

これが、僕の問いでした。長年抱いていた問いでもあります。

 

それに対する石井さんの答えは、

 

「絶対に正しいといえるものは存在する」

 

でした。

 

その上で、「ただしい」というのは「正しい」という字で書く相対的なものではなく、

 

「義しい」

 

という字で表す絶対的なものを示すと教えてくれました。聖書によく表れるフレーズですね。

 

今の時代、「正しいものなど存在しない」という見方が主流ですよね?

 

多様な価値観が交わる世の中だから、何が正しいだなんてことを議論するのは無駄でしかない。人それぞれがそれぞれの信じる道をソンチョーしようみたいな考え方が、どこにでも蔓延してますよね?

 

「正しさ」よりも「楽しさ」を追求しようみたいに言われますよね?

 

僕は、そんな世の中の状況に対して、ずっと憤りを覚え、深く傷付いていました。

 

全ては相対的でしかないなというのなら、何をやっても無意味でしょう。なぜなら、何かを成し遂げても、そうでないのだとしても、そこは取り換え可能な存在でしかないからです。

 

卑近な例でいうと、「恋人」というポジションに位置するのであれば、その相手は誰でもよくなりますよね?

 

「かわいい」とか「かっこいい」とか、そういう一定のスペックを満たしていさえすれば、「恋人」となるのは誰でもよくなる訳です。

 

相対的であるならば、その人が"その人"である理由が無くなるのです。

 

そうやって相対的に全てを捉え続ける結果、どうなるのか?最初は「何かを失ってもまた代わりの何かを手に入れられる」とポジティブに考えて行動できると思います。けれども、そのうち全てが虚しくなります。

 

極端な話、死んだら全てが終わりですからね。

 

少なくとも僕はこうした相対化地獄に耐えきれませんでした。その話はまた別の機会にするとして(過去にブログに書いたかも?)も、今、世の中が荒廃している大きな理由の一つが、この「正しいものなど存在しない」という洗脳にあることは間違いないと僕も思っています。

 

敢えて、"洗脳"と書きました。

 

「恋人」が誰でも良い?実際はそうじゃないでしょう?相手との思い出や、注いだエネルギーがやがてはかげがえのないものとなるのではないでしょうか。

 

「恋人」が受け入れ辛いなら、趣味でも家族でも信念でも…何でも構いません。

 

自分が心の底から義しいと信じているものを、きっと誰もが持っているはずなんです。

 

確かに、世の中は見方によって変わる面は多いです。けれども、それら全てを包括した上に絶対に義しいといえる何かがあるはずなんです。

 

そして、個々人はそれぞれその絶対に義しいといえる何かに通じる片鱗を、どこか心の中に持っていると僕は思っています。

 

内なる神性と言ってもいいかもしれません。

 

石井さんが仰ってました。セラピーの現場の中で、クライアントの方が上になることがある。そうした時に上手く論理で言いくるめられて「死んでも良いのではないか?なんなら俺も死のうか」と思わされてしまうことがある、と。

 

学生時代の心理療法家でもある自分の恩師も、全く同じことを言っていました。

 

両者に共通して言っていたことは、そんな状況においては「何かしらの崇高な信念」が無ければ乗り越えることができないということでした。

 

「なぜ死んではいけないのか?」と問われた時に、「死んではいけないからだ」と答えられるか。

 

「なぜ殺してはいけないのか?」と問われた時に、「殺してはいけないからだ」と答えられるか。

 

「なぜ」と問う必要すらなく、それそのものが絶対的に義しいと言えるのだと、石井さんが述べてました。

 

人間には、絶対に義しいと呼ばれる何かが生きていく上で必要であるし、それがあると信じているし、そう思っている。

 

そのように述べた石井さんの姿を見て、僕も安心しました。

 

私ごとですが、それを聞いて僕もとても嬉しかった。

 

十代の頃、悩み苦しみ続けた葛藤を石井さんも抱え、そして、同じ結論(理想)にいたった。

 

その事実が、単純に何よりも嬉しかった。

帰りの電車で一人泣きそうになりましたし、何よりも生きる勇気がより一層湧いてきました。

 

実はこの話題に関しては次回の沢雉会取り上げる予定のテーマであったとのこと。

 

次回というのが実は今この記事を書いている今日です(笑)

 

''絶対に義しい"と呼ばれるものが存在するの信じて指す内容を、より深く聞いて学んでこようと思います。 

 

実験に徴した上で。

 

続く……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊と体〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想④〜

聞こえる何かを聴くとき、心はその何かと出会って止まるのです。

見える何かを見るとき、心はその何かと出会って止まるのです。

聞こえないものに耳を澄まし、見えないものに目を凝らすとき、心はどこまでも伸び広がって止まらないのです。

2015年12月20日石井裕之さんがTwitterで呟いた言葉です。

 

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今は残っていないのですが、僕も当時この呟きをリアルタイムで読んだ記憶があります。当時、感銘を受けながらもよく分かっていなかったその意味を、今は少しだけ受け取れてきたような気がします。

 

聞こえないもの、見えないものとは何か?

 

石井さん曰く、人間は、単体として生きているわけではなく、目に見えないもののサポートを受けながら生きているとのこと。

 

個人単体として生きているのではなく、実はチームとして生きているのだと。

 

但し、そうした存在からサポートを受けるためには、目に見えない存在から"自分自身"を見つけてもらう必要があるそうです。

 

見つけてもらう、とはどういうことか?

 

詳細は長くなるので割愛しますが、目に見えない存在から認識してもらうためには、その人自身が目に見えない存在のことを信じている必要があるのです。 

 

現代は、科学が席巻する時代です。

 

少なくとも、科学的な見方"のみ"が正しいと言えるのだという共通認識、パラダイムの元に人々の生活は成り立っているでしょう。

 

ある意味、科学的な物の見方ではここでいう目に見えないものの存在を証明することは出来ません。

 

人は死んだらどうなるのか?

人生の意味とは何なのか?

愛情とは、何なのか?

 

そうした問いに科学が答えるには限界があるのです。

 

限界があるというのは、無益という意味ではありません。科学には科学の役割があり、科学には担えない役割もあるということです。僕も学生時代、そうした科学的な手法や考え方を曲がりなりにも学んできたので、そうした科学の限界や境界線は理解しているつもりです(科学哲学とかやったな〜)

 

では、その科学の境界線を越えた話を、人はどのようにして認識できるのか?目に見えない存在などというものを、どう定義し、受け入れることができるのか?哲学、宗教、実体験など様々な枠組みはあると思いますが、石井さんの場合は、

 

輪郭のないものを、輪郭のないまま受け入れる

 

ことによってそれを可能となると仰ってました。そして、これこそが沢雉会の目指す方向であるとも。

 

輪郭のないものを、輪郭のないまま受け入れるためには、何かと出会った時に輪郭を付けないことが重要です。

 

ニュアンスを僕が理解しきれているか、更にはここで伝え切れるか非常に怪しいのですが……敢えて例えて言うなら「言葉」で定義しないというのが一つの例であると言えるお思います。

 

りんごを見た時に、それを「りんごだ」と認識すればそこで思考は止まります。

 

更には、僕達は普段の生活において、あくまでもりんごの表面しか認識しません。切って中身を切り開いたとしても、そこに見えるのはやはりまた別の表面です。

 

"りんご"そのものを見るのは極めてイメージしづらいことだと言えるのではないでしょうか。

 

人間においても、表面だけを見るならば、ある意味では骨肉の塊でしかありません。死んだら土に還るだけの存在です。

 

そうした物質的で輪郭で区切ったものの見方を石井さんは体(たい)的な見方と言っていました。

 

けれども、そうではないでしょう?

 

人間が皮の下の髑髏を持て余すだけの存在でしかないのだとしたら、そんなの死んだ時点で終わりだし、何よりも生きていて虚しい。

 

人間には、心もあれば魂もある。

 

単に寝て食べて、呼吸するだけの存在ではないと感じる人も多いと思うのです。(そう信じたい)

 

そうした見方のことを、体的な見方に対して霊(れい)的な見方であると石井さんは仰ってました。

 

隻手の声と呼ばれる禅問答が存在しますが、片手だけで行う拍手の音を聴くために、聴こえないとしても耳を傾き続ける必要があるのだというのが石井さんの解釈です。それが、霊的なものの見方に繋がるのだと。

 

また、印象的だったのは、石井さんが現代では霊的な見方は蔑視され、体的な見方に引きずりこもうとする"力"が強く働いていると言っていたことです。

 

そうした力、働きのことを、◯◯と呼んでいました。

あくまでも、例えですが(笑)

 

ここでも、師匠である加藤好洋さんが常日頃言っていたこととリンクしました。

 

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現代人の心が乾き切っている理由の一つが、体的なものの見方しかできない、許されない時代になってしまっているからだと言えます。

 

賛否両論あるとは思いますが、それに関しては、僕も同感します。体的なものの見方に囚われていた十代の自分も、常に乾き、欠乏感に苛まれていました。

 

更には、そうした体的な見方に人々が囚われる背景には、より根本的な理由が存在するのだと、分かりました。

 

前回の沢雉会が終わる、ラスト10分での出来事です。

 

それについて、次回、魂を込めて掘り下げていきたいと思います。

 

つづく

 

↓加藤好洋さんの講演会などが見られるページ

 

【夢源樹】好奇心追求サイト ~あなたも常識の向こう側を覗いてみませんか?~https://mugenju.com/about/

 

 

 

自家製繁殖小動物shippobank即売会!@ユニディ相模大野 2018/11/11

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自家製繁殖小動物shippobankさんの即売会にスタッフの一人としてお手伝いに参りました。

 

まずはこちらの動画を観ていただけたらと思います。


shippobankの生体即売会!たくさんの生体を見て触ってピッタリの子を見つけられます!

 

shippobankさんは星川どうぶつのおうちで徒弟制度に参加していた頃からのご縁があり、様々な側面でお世話になっておりました。

 

即売会では、星川どうぶつのおうちにかつていた動物たち(ハリネズミ、オキナインコ、ベニジュケイ、ニジキジなど)も出展されており、ハリネズミ担当として自分は出動致しました笑

 

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(↑希少なニジキジと↓ベタ慣れのオキナインコ)

 

実は、家にハリネズミを七匹飼っています。ブログには書いていませんでしたね🦔

 

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(↑即売会のハリネズミと↓我が家のハリネズミーズ)

 

それにしてもここで売ってるハリネズミ、人間にベタ慣れ過ぎて凄いんですよ。普段七匹飼っている僕の目から見てもこんなに人に慣れ切っているハリネズミは見たことありませんでした…!

 

是非とも見て直接さわってあげて欲しいです。手のひらで横になってスヤスヤ寝始めますよ♪

 

大盛況に見舞われてお客様とお話をしていく中で気付いたのが、動物を普段から飼っている方々の持つ他者への意識の深さ

 

動物を通じて察する力や他人(他者)に興味を抱く力が養われていくのかもしれないと実感すると同時に、言葉を介さない非言語的なコミュニーケーションの在り方が自然と身に付いているなと思いました。

 

これからの時代を生き抜く上では必要とされる能力の1つですね。

 

加藤コーチが星川どうぶつのおうちで常々言っていた愛情を育てるということの意味を、改めて深く実感致しました。

 

shippobankさんの即売会では専門のブリーダーによって育てられた90匹以上の自家製繁殖小動物がその場でお迎え出来ます。それも、相場よりもかなりお得なお値段で(笑)

 

神奈川や千葉を中心にあちこちで即売会をやっているので、興味がある方は是非ともツイッターの最新情報をご覧下さい!

 

twitter.com

 

僕も時々お手伝いに参ります^_^

 

最新情報などもちょくちょくこのブログで発信してまいりますね!

 

それでは!

 

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(↑即売会の様子)

 

 

「与えられなかった」経験〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想③〜

納得し、腑に落ちて、確信する〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想①〜 - 徒然日記の中で、「実験に徴する」という言葉を取り上げて感想を書きました。今回はその続きです。

 

実験に徴する、自分の実体験を通じて感じたことを言葉にしなければ生きた言葉として人の心に響くことはない。どれだけ頭で考え抜いて理解をしたのだとしても腑に落ちた言葉ではなければ死んだコトバとして誰の心にも響かないものとなる。

 

そう述べられた石井先生の言葉を、僕は他人に対してだけでなく自分自身に対しても言えるのではないかと解釈しました。

 

昨今の自己啓発の世界の中で取り上げられる言葉の一つに

 

自分を愛しましょう

 

というフレーズがあります。

 

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自分を愛することを通じて全てを愛し、人生が上手くいくようになる。もっともらしいですし、一つの真理を表しているのだと思います。

 

けれども、そもそも自分を愛することができるのは愛された経験がある人に限られます。

 

愛されたことが無い人は、「愛される」という感覚が分からない。

 

セラピーの現場を通じて、石井先生が学ばれたことです。そんな愛された経験が無い人が、どうやって自分を愛することができるのだろうか?石井先生はこの事に対して問題提起をされていました。

 

どんなに孤高に自分の力だけで成功してきたように見える人にも、その原点には必ず他人から認められた経験がある。

 

石井先生の場合は、かつて中学校の先生から

 

「石井は英語ができるな」

 

と言われて、はじめて「認められる」という感覚を知ることが出来たと言います。

 

偶々、「英語ができる」と自分でも意識していなかった部分を「認められる」という経験を"与えられた"からこそそこから英語の勉強がますますできるようになった。

 

一方で、そうした経験を"与えられる"ことが無かったらどうなっていたでしょうか?

 

多かれ少なかれ、人にはこうした与えられた」経験と「与えられなかった」経験の両側面を抱いて生きているのではないかと思います。

 

例えば、「勉強ができる」と認められた経験があるのだとしても、異性に一度も好かれたことの無い人は、「異性に好かれる」という感覚を知りうることが出来ません。

 

もっというと、自分は「異性に好かれる」なんて経験には絶対に巡り会えないとさえ思ってしまうのでは無いでしょうか。特にその空白期間が長ければ長いほど、その想念は強固なものとなっていることでしょう。

 

運良く、誰かに好かれる経験が過去に一度でもあったのなら、「好かれる」という感覚を信じることができる。けれどもそうした経験が無い人は、じゃあ果たしてどうやって「好かれる」という経験を信じ、得ることができるのでしょうか?

 

答えを言ってしまえば、「好かれる」ことが無いのであれば、自分から「好き」になるしか無い、のではないでしょうか。

 

自分から「好き」になることができれば、潜在意識の世界では主語の区別がないために、「好かれる」という経験も自ずと得ることが出来るのではないかと僕は予想しています。

 

以前、師匠の加藤コーチが講演の中で

 

自分は「愛された」経験がなく、それに飢えていた。愛されるというのは自力でどうにも出来ないと分かったからこそ、自ら「愛する」ことをしようと思い行動するようになった。

 

といった話をされました。

 

かつて徒弟制度で僕も入っていた星川どうぶつのおうちの目的も動物を通じて愛情を育てるというものでした。

 

人生において、「与えられた」経験と「与えられなかった」経験が人によって大小質ともに異なります。

 

そこで大事なのは、「与えられなかった」経験と自分はどう向き合っていくのかという事なのだと思います。

 

多くの「与えられなかった」経験は、その人の中で劣等感という形で残り続けます。

 

加藤コーチは劣等感との向き合い方に関して、人は以下の様に分かれると仰ります。

 

劣等感を、克服するか恨む(いじける)かのどちらかです。(詳しくはこちら↓)

 

【脱洗脳】劣等感の作用 (1) | コーチ・カウンセラーの裏側、成功法則の仕掛けと陰陽

 

人生の課題とは、こうした部分に強く現れるのではないかと最近少しずつ考えるようになりました。

 

「与えられた」経験のみに固執して、長所を伸ばすことに特化した生き方もあるでしょう。

 

けれども、それはいわば重力の法則に身を任せて無抵抗に流されているだけであり、生きたとは言えないのではないか。

 

短所と向き合い、流れに逆らって克服しながら理想を目指していく、そんな風にもがき続けることが真に「生きる」という在り方を示しているのではないだろうか。

 

誰からも好かれない、相手にされない性質を持って生まれてきているのであれば、まずは誰かを好きになり、自分から興味を持ち続ける。

 

そうして誰かに「好かれる」という経験を与えなさい、という課題を持って生まれているのではないかと個人的に考えるきっかけとなりました。

 

「与えられなかった」経験から抱く劣等感を、克服するか恨むのか。

 

それを最終的に決めるのが己の持つ自由意志

 

劣等感、コンプレックスを克服するのは文字通り死ぬほど大変なことです。

 

上手くいっていなかった今までの自分をまずは認め、その上でそこに築き上げた自我をぶっ壊す必要があります。

 

しかも、克服して得る対象というのが基本的には前述の通り「経験したことのない」経験です。

 

正直に言えば、僕自身そんな前提を踏まえた上で劣等感を克服するという感覚が腑に落ちていません。

 

けれども、それでも尚、七転八倒、泥沼をもがき続けながら自分もおのれの1つ1つの課題と向き合って参りたいと思い直しました。

 

まずは恋愛。相手に興味を持ち「好き」になることからだな……笑

 

つづく

 

 

恥を晒してもブログを書き残し続ける理由

最近、恥をかく機会が多い。

 

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主にこのブログやそこに関わる活動が原因となるのだが、情報発信をし続けていると何かしら軋轢を産むことはしばしば多い。

 

今現在、プロフィールには最低限の情報しか載せていないが、過去の記事には自分の本名を始めとした個人情報が多く公開されたままになっている。

 

過去の記事のこととはいえ、そうした情報が公になっている以上は実生活に及ぼす影響は大きいと言わざるを得ない。

 

そういうリスクを承知の上で、それでも猪突猛進の如く毎日取り留めもない内容の記事を書き続けていたが、今現在リスクを目の当たりにしてる中、気高に振る舞い続けられるほど、自分は強くは無いのだなと実感している。

 

毎日怯えているし、ストレスだって莫大に増える。

 

けれども、ブログを止めることはない。

 

せめて個人情報が公になっている過去の記事だけでも削除(非公開)にするべきではないのかと考えることが今でも毎日のようにあるが、それでも、そうするつもりも無い。

 

どうしてそんな爆弾のようなリスクを抱え続けながらブログを更新するのかといえば、それは己の変化を誰の目にも見られるようにしたいからだ。

 

過去の自分が、どうしようもなくイタイ人間であったことなんて自分が一番よく知っている(今も十分痛々しいとは思うが……)

 

世間一般的に言えば、黒歴史と呼ばれるものが大量に残っているのだろう。

 

けれども、私はそれを単純に黒歴史と呼んで切り捨ててはいけないのでは無いかと思うのだ。

 

なぜならば、どんなに痛々しく、恥辱にまみれた姿を晒しているのだとしても、それこそが、自分の生きた証であるからだ。

 

至らない点しか見当たらないのだとしても、当時の自分が魂を込めて書いてきたものであることには、変わらない。

 

そこに蓋をして"なかったこと"にするのはなんだか違うんじゃないのか、と思うのです。

 

人は、成長する。

 

成長を確かめる唯一の方法が、変化を見ることでは無いのでしょうか?

 

変化を確かめる為には、ダメだった過去の自分と今の自分を客観的に比較するしか無い。

 

今こうして記事を書いている自分だって、本当に上手くいかないことばかりでダメでダメでどうしょうもないけれども、これだって未来の自分との変化を比較して確かめる為の貴重な材料となる。

 

情報発信やマーケティングの王道を考えれば、俗にいうインスタ映えする良い情報だけ残して発信し続けた方が効果的であるのは間違いない。

 

けれども、私はそれが義しい姿であるとは思えない。偽善だと感じる。

 

素晴らしい人間が、より素晴らしくなるのなんて当たり前だ。

 

けれども、私達が本当に知りたいのは、ダメな人間も果たして変われるのかということではないのだろうか?

 

救いようのないクズや、誰にも相手にされない失敗作が、それでもいつかは輝ける日が来るのか?

 

そんな切実な問いに、答えていけるようになりたいと、私自身が強く望んでいる。

 

だからこそ、残すんです。ダメな自分の姿も。 

 

かつて、師匠である加藤好洋コーチに過去のブログ記事について相談したことがある。

 

頂いたアドバイスとしては、同じことを仰っていた。

 

残したままで良いんだよ。過去の君の書いた記事と、今の君が書いた記事を読み比べてもらうことで君がどれだけ変化してきたかを読者は知る。その変化を知ることが読者にとっても学びとなるんだよ。

 

実際にこんなに上手くいくことは無いのかもしれない。今の自分がどれだけ変化してきたのか、どれだけ成長し続けているのか……正直分からないし自信をなくす事もしばしばだ。

 

寧ろ成長の逆、つまりは堕落する方向に舵を切ってしまっているのではないかと疑心暗鬼に駆られることもある。

 

けれども、ある意味色々とありながらもブログを書き残し続ける理由には、信じているからだと思うのです。自分の成長、そして変化を。それを残すことで救われる何かがあるのだということを。

 

信じている自分、を信じる。

 

その結果としてブログを書き続ける。

 

そんな背景があるのではないかなと、感じました。 

 

12月に師匠の加藤好洋さんが新しいメディア、夢源樹でイベントを行います!

夢源樹-MUGEN-JU-:夢源樹がご提供するコンテンツをご紹介:和製エクソシスト 加藤好洋が語る「悪魔の誘惑 ~七つの大罪 欲望への誘い~」

 

現代の情報の裏の裏まで精通している加藤コーチの話を聞けるレアな機会、どうかチェックしてみて下さい^_^

心の境目が無くなりつつある〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想②〜

加藤好洋さん率いる星川どうぶつのおうちの徒弟の会の中で、加藤さんがしばしば言われていたことの一つに

 

「思ったことや考えたことが、瞬時に相手に伝わるようになるし、思いが善くも悪くもすぐに実現されるようになる」

 

というものがあります。

 

動物相手には嘘偽りのない情報が伝わるのはもちろんのこと、それが人間同士の間でも起きてくるとのこと。

 

昨日の沢雉会の中で、石井さんが同じことを仰っていました。

 

ここ4〜5年間で、世の中の様子が一変して来たように感じる。昔は自分の心(内面世界)と他人の心(外面世界)の間には壁があり、表現しなければ思ったことが相手に伝わると言うことはあまり無かった。けれども今の時代、街を歩けば他人の思い、感情、想念がすぐに伝わってしまっているような気がする。うつ病が増えてきているかも、敏感な人が他人の想念を感じ過ぎるような時代になったからでは無いかと思う。少なくとも、自分の実感、実験に徴した上でそう感じる。

 

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引退宣言から4年経ち、石井さんが今年沢雉会を復活させて背景には、こうした状況に対するある種の危機感があったからだと言います。

 

思いがすぐに伝わり、現実化するようになる(と感じる)時代に適応できるだけ、我々自身が成熟しきれていないのではないか?

 

ポジティブな思いが伝わるのは良いかもしれないが、その反面、人間の内に眠る暴力性や残忍さといった負の側面も現れ、すぐに伝わるようになってしまい、そうした現実を生き延びる為にどうあればよいのかという問いに基づき、沢雉会を再始動させたとのことです。

 

シュタイナーの言う「国と国ではなく、人間と人間が争い合うような時代」がやってくるとも仰ってました。

 

僕自身、最近は奇妙な偶然に巡り合うことが増えたように感じられます。

 

まさに昨日、納得し、腑に落ちて、確信する〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想①〜 - 徒然日記を書き終えた深夜3時のことです。

 

書き終えて一息着いた瞬間に、「今日の石井さんの話、ブログに書いてみて!」と加藤さんからメッセージが来ました。

 

それがピッタリのタイミングで驚きました。

 

更に、少しやり取りをする中で、「また自分の話ばかり書いていたでしょ?伝わってるよww」と諭されました。

 

「なんで分かったんだ…?」

 

常日頃交流を続けているとはいえ、改めて偶然には思えない出来事に内心動揺を隠せませんでした。

 

シンクロニシティ集合的無意識、世界精神などなど、昔からこういう現象に対して名前が付けられて来ましたが、石井さんや加藤さんの仰る通りの現実が目の前に繰り広げられているのだなと感じました。

 

続く……

 

納得し、腑に落ちて、確信する〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想①〜

石井裕之さんの沢雉会2018ダイジェストに行ってきました。

 

ダメな自分を救う本 人生を劇的に変えるアファメーション・テクニック (祥伝社黄金文庫)
 

 

かれこれ10年以上読み続け、励まされ続けてきた本の著者にやっと会えるということもあり、どこか特別な心持ちで今日は会に参加をして来ました。

 

学びは深く、血となり肉となるまで熟成させておきたいとう思いはあるのですが、今日は一つの言葉を取り上げて感じたことを書きます。

 

"実験に徴する"

 

会の中で、石井さんが教えてくれた言葉です。

 

ここで言う「実験」は、いわるゆ理科の実験ののような"experiment"という今ではなく、"実際の経験"を意味し、辞書の2番目以降に載っているそうです(調べたら載ってました)

 

"実験に徴する"というのは、自分の経験や感じたことに照らし合わせるという古くからの言い回しであり、

 

この3ヶ月間の沢雉会2018ダイジェストの中で、石井さんが目指すものとしては、石井さんが述べ伝える「言葉」が参加者の中で生きたものとして根付くことにある。

 

「言葉」が根付くには、石井さん自身の"実験に徴した"ものを伝えるしかないのだと仰っていました。(「言葉」という表現は便宜上の表記で実際は少し異なります)

 

会の中で石井さんが述べた事柄を箇条書きにしてまとめてそれこそブログに書くこともできる。

 

けれどもそれは"死んだ言葉"に過ぎず、個人の中で実感の伴った"生きた言葉"として根付かなければ意味が無い。

 

参加者自身の"実験に徴した"言葉として書かなければ活かされないのだと、少なくとも僕はそう受け取りました。

 

その為、それにあやかる訳ではないですが、僕もできる限り"実験に徴した"言葉を書き連ねたいと思います。

 

"実験に徴する"という一つの感覚、在り方は、僕自身が何よりも請い憧れていたものです。

 

十代の頃、いくら懸命に学び続けてもそれが実感を伴った経験に転じることの無い時期を長く過ごしてきました。

 

何を見ても、聞いても、触っても、知り続けても、それが現実味を帯びることが無い。

 

師匠の言葉を借りるなら、知が識となることがなく、いつまで経っても何も身に付かずに彷徨い続ける自分がいるだけだった。

 

知を積み重ねても、知識となることが無かった。

 

渇いた欠乏感が常にあり、腑に落ちるという感覚に渇望していました。

 

それこそ、感じ取るための感覚を磨く為に星川どうぶつのおうち徒弟制度に入り始めた。

 

なぜ何も感じることが出来なかったのか、すごく大雑把に言えば、頭でしか物事を理解していなかったからだと言えます。

 

根拠のある、理屈で説明できるもののみが"おおよそ正しい"と言える。

 

そこに自分の納得や確信は無く、ただただ科学的な権威にしがみ付いていた。

 

少し、漫画の話をします。

 

ジョジョの奇妙な冒険第7部、『スティール・ボール・ラン』の主人公、ジャイロ・ツェペリが、自身の行動原理として、

 

「納得」は全てに優先する。オレは「納得」したいだけだ

 

と言うセリフ(一部改変)を述べています。

 

 

かつての自分は、「納得」を優先することが出来なかったのだと思います。

 

自身の「納得」以上に権威が認めてくれることを大切にし、自分に嘘を吐き続け、しまいには自分がどんな嘘を付いているのか分からなくなった。

 

"実験に徴する"ことを放棄していたんです。

 

けれども、僕も石井さんの言うように実感の伴った学びでなければ人の中でそれは生きてこない、自分に対しても相手に対しても伝わらないと感じます。

 

納得し、腑に落ちて、確信する。

 

こういうプロセスを踏んではじめて"実験に徴する"ことが出来るのではないか、生きた言葉を伝えられるのではないかと、考えました。

 

ともすれば、現代人はこれが出来ずに悩み苦しみ続けているのではないかとも僕は考えます。

 

ここが自分にとっての一つの大きなテーマになっているのだと、今回の会を通じて再認識しました。

 

僕は、納得したい。

腑に落ちる瞬間にまだまだ出会いたい。

その上で、確信して人生を歩みたい。

 

そんな、自分の抱いている切実な欲求に改めて気付かされました。

 

また、改めてブログを書きます。

 

実験に徴した上で。