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~生駒 翼の徒然日記~

ICU(国際基督教大学)に通う千葉県在住の教養学部生です。心理学(主に臨床心理学、コーチングなど)、太極拳、リベラルアーツなどを中心に、徒然なるままに思うことを書き連ねて往きます。Twitterアカウント:@Tomo_Haneda03

「この世」を懸命に生きる為にはどうしても「あの世」を置いて考えていく必要があった

いつもブログを読んで頂きまして、ありがとうございます。予告通り、前回の続きの内容となる記事を書こうと思います。

 

ikoma-tsubasa8.hatenablog.com

(↑前回の記事)

 

前回は、僕自身、己のこころに「死の恐怖」がまとわりついていたという事に気付き、更には「死」という終わりを避ける事は絶対に不可能である以上、どうにかして絶対的な何かを手に入れようとするのではなく、一瞬で過ぎ去る「今、この瞬間」を懸命に生き続けるしか道はないと言う事について書きました。

 

また、「死の恐怖」を自覚するようになってから真剣に、地に足を付けて「この世」とは何か?「人生」とは何か?と言う問いと向き合うようになったという結論で話を一旦締めました。

 

さて、今回はまたそこから改めて話を紐解いてがくのですが、僕がどのようにして「この世」を生きられる様になったのかと言えば、結論から言ってしまえばタイトル通りでですが、「あの世」を想定する様になったからです。

 

ここから先、どうしても非常にキナ臭い話をせざるを得なくなるのですが、あくまでもこれは「生駒 翼」自身が感じている世界観なので、それが正しい事なのだと押し付けたい訳ではありません。僕自身は本心を言えばそれが真実なのだろうと感じ始めているのですが……それを客観的に裏付けて証明する事は出来ません。もしかしたら真実は違うのかもしれません。その事をどうか念頭に置いて読んで頂けたらと思います。

 

では、話します。

 

乱暴に一言でまとめるなら、「死の恐怖」を傍らに置いて生きていた僕は「人生、いつかは『死』という終わりを迎えるし、死んだ後に世に残るものがあるのだとしても、やっぱり最後は『無』に還すのだから、人生には『生きる意味』を見出せない」と、虚無主義ニヒリズム)に陥ってしまう事が多かったです。前回の記事で述べたアイディンティ・グループを通じて「死の恐怖」と直面し、自分で認識出来る様になってからも、掛け替えのない「今、この瞬間」を大切にしながら目の前の現実を精一杯生きていこうと自分を鼓舞し続けたりもしたのですが、それでもやはり、「死」という「終わり」の事を思うとすぐにまた絶望的な気分に陥り、暗くなりました。それでもまた、「今、この瞬間」を精一杯生きようと思い……といった泥沼の悪循環に嵌っていきました。けれども、それでも尚、そうした永遠に引き延ばされた袋小路の様な日常に翻弄されながらも、「何とかしてそこから抜け出したい!」と、心の底ではいつでも切に願っていました。

 

後ろ暗くてジメジメとしたものを心に抱えて生きていく事は否定したくないし、その事に対して臭い物に蓋をする事で「なかったこと」にして安易に処理するような事は絶対にしたくは無いのですが、だからと言って、そういう薄暗い路地裏のココチヨサに甘んじて単に厭世的になったまま生きていれば良い、という訳では決してありません。否定したり、無意味だと言い放つだけならクソ簡単に出来る事ですが、何よりも、そんな事、全くカッコ良くはないんです。

 

では、どうやってそこから抜け出せるようになったのか?

 

最近TSUTAYAで借りて観たアメリカ映画の中に、『オッド・トーマス死神と奇妙な救世主』と言うがあります。

 

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(↑Googleで拾った画像)

 

これはアメリカのベストセラー作家、ディーン・R・クーンツの人気シリーズである『オッド・トーマス』シリーズが原作の映画なのですが、ネタバレを避けて内容を少し解説すると、生まれつき霊を見る事が出来るサイキック能力持ちの“フリーター”ヒーロー、オッド・トーマス(20)がその能力を駆使して町に襲い掛かる災厄から町を救う為に、ひたすら頑張るというストーリーの映画です。

 

オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主:予告動画↓

youtu.be

 

これは友人からオススメされた映画なのですが、笑いあり、涙あり、恋愛あり、サスペンスあり、SFあり、アクションあり、感動のクライマックスあり……と、全方向において僕を楽しませてれた超当たりのエンターテインメント映画でした。何よりも、町を救う為に自らを省みずにひたすら頑張るオッド青年の姿には素直に応援したくなる清々しさがありましたね。「とある魔術の禁書目録」の主人公、上条当麻によく似た匂いがしますね……しつこいかもしれませんが、オッド君は洗練されたテクニックなどなくひたすら頑張るだけです。そして、そこが良い。

 

後、何よりもオッドの恋人であるストーミーが超可愛い

 

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(↑ストーミー(右側))

 

で、今回お話したいのはその劇中のオッドの恋人、ストーミーが言った台詞なのですが、彼女は劇中でこういう言葉を言い残しました。

 

「この世」は謂わば修練場みたいな場所なの。人は皆、人生を通じて次の世界の様な場所に行く為の魂の修業を積んで生きているのよ。”

(『オッド・トーマスと奇妙な救世主』吹き替え版より一部改変して引用)

 

この映画を紹介してくれた友人が、僕がこのDVDをTSUTAYAで借りてきて観る直前に、偶々、Twitterで僕がこれと同じ台詞を言っていた事に驚いたと教えてくれました。

 

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↑その時の呟き

 

その直後、僕もこのDVDを見始め、自分が何気なく呟いた文章とほとんど同じ台詞を劇中のヒロインが喋っているのを観て、驚きました(所謂、シンクロニシティと呼ばれる所以の奴なんですかね?)。

 

丁度、同じ時期に、僕も本格的にこういった事を考え始めるようになりました(正確にはもっと前からですが)。自分が生きているこの「人生」には、何か揺ぎ無い意味が付与されているのではないのか?「この世」というのは本当に刹那的な存在でしかないのか?いや、何か意味があってほしいと切実に願い始めるようになりました。

 

そうこう考え、試行錯誤しているうちに、自然と「この世」の意味を定義する為に、謂わば「あの世」に思いを馳せ始めている自分を発見しました。いや、正確には、本来の自分に戻って来た感じがあります。

 

少し話が脱線しますが、僕はスピリチュアル系の本、特に「引き寄せの法則」などにかなり傾倒していた時期が過去にあります。それは、中学時代なのですが、丁度大量に本を読み始めた時期とも重なっており、また元々海外に居た頃はヒンドゥー教の寺院や仏教の聖地などに沢山観光で訪れていた事から神秘的なものに対して親近感を覚えていた為、塾帰りによく御茶ノ水丸善で目に付いた怪しい本を出来る限り立ち読みしたり購入したりしていました。他にも、地元の図書館で塾の社会の先生から教わった『チベット死者の書』『呪術師と私ードン・ファンの教え』と言った有名な呪術本を借り、内容をよく理解できないながらも夢中になって読んでいました(そう言えば苫米地さんの『洗脳護身術ー日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修業と自己解放』を読み込み始めたのもこの時期だったな……)

 

結果的に当時の中学時代の生駒少年は、一旦、そういった宗教的、スピリチュアルな話を自分の中に封印し、「科学」に身を置こうと決める事になったのですが、それも認知科学者、苫米地英人

 

『宗教は二十歳から』

 

と言う台詞の影響が大きいです。ICUで最終的に哲学・宗教学ではなく心理学を専攻したのも、「科学」的な思考法や枠組みをきちんと型に嵌ってまずは身に着けようと思ったからです。そして、成人を迎え、心理学の研究法の授業も(一通り身に着いたかどうかはさて置き)終えた僕は、無意識の枷が外れたのか(いや、単にタイミングが一緒だっただけですね)、「あの世」と言った怪しい話を再び考える様になりました。改めて、大学生になってから卒論の傍ら、上に述べた本を読みなおしたり、臨死体験や高名なヨガ行者の本などを読み込んだりしたのですが、まあ、何と言うか……非常に面白いんですよね(笑)。

 

例えば、『生き甲斐の創造』という有名なベストセラー本があるのですが、この本では古今東西にある臨死体験や輪廻転生などの話を集める事で、「人は産まれる前に、次の人生で自分の果たすべき使命を神との相談を通じて決め、両親を自分で選んで自らの意志を持ってして生まれる」と言ったストーリーを展開したりしています。

 

そんなこんなで、「あの世」と向き合う内に、翻って「この世」と向き合うようにもなりました。もしも「人生」が修業なのだとしたら、困難や試練が一生続くのだとしても、それを何とか乗り越えて生きていこうと思えるし、そんなに詳しい訳ではないのですが、キリスト教の宗教用語にある"calling"、噛み砕いて訳すと「神のニーズ」「神に期待されていること」といった神に誓って成し遂げるべき使命に準じて生きていく姿勢も、僕の目には魅力的に映るようになってきました。

 

さて、色々と小難しい事を話してきましたが、序盤にも述べたように、以上に僕が述べた事が正しいかどうかなんてことは分かりません。僕は死んだ事は無いですし、例え臨死体験を経験していたのだとしても、それが死後の世界を経験した事を保証するものではないですし、「あの世」の論理で「この世」を蹂躙するのはカルトと言わざるを得ません。

 

また、そうやって宗教性を盾にして人生を語るのは、ともすれば宗教に癒しを求め、現実逃避を行い続ける軟弱な姿勢に見えるかもしれません。僕自身、「あの世」の事ばかり話して「全ては赦されている」とか「今はタイミングではない」とか自分に都合の良い事ばかり言ってしまう姿勢には正直、嫌悪感すら覚えます。

 

けれども、現にこうして「あの世」であったり、神を信じ始めている自分が居る。それならば、それが正しいかどうかはともかくとして、

 

「神を信じ始めている自分」を自分が信じてやろう

 

と思うのです。それはつまり、信じ始めているのは神ですが、信じる主体と信じる客体はあくまでも自分なんです。

 

ここまで、ざーっと僕の死生観の様なものをお話しましたが、割愛した話なども多い為、もしかしたら理解できない部分などもあるかもしれません。終盤で急に「あの世」の話から神の話に代わりましたが、神を信じ始める最後のきっかけとなったもう一つの存在については今回は触れていない為、急に話が飛んだように感じるかもしれません。ですが、もうその話をするのはテーマが大きく変わって来ると思うので、またの機会に。

 

一先ず、「あの世」を置く事で「この世」を日々精一杯生きる様になったという事だけお伝えする事が出来れば良いかなあと思っています。

 

最後に、椎名林檎の曲の歌詞を一つ引用させて頂きたいと思います。

 

噫また不意に接近している淡い死の匂いで

この瞬間がなお一層 鮮明に映えている

刻み込んでいる あの世へ持って行くさ

至上の人生 至上の絶景

椎名林檎『NIPPON』より引用)

 

いつか訪れる最期の日に、至上の人生を「あの世」に持っていくべく、これからも命を燃やして生きていこうと思います。

 

 椎名林檎 - NIPPON↓


椎名林檎 - NIPPON

 

 これを持ってして、前々回から引き続いて書いていた一連の記事は終了となります。

 

明後日4月1日には入社式を迎えて新社会人になり、これから忙しくなってくるとは思いますが、ブログは自分のペースでまた続けていきたいと思いますので、どうかよろしくお願い致します。

 

最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました!

 

『オッド・トーマス死神と奇妙な救世主』は本当に面白い映画なので、是非ともTSUTAYAでレンタルして観てみてください。

 

それでは!

 

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質問・感想などはコメント欄かこちらのメールアドレス(tsubasaikoma0@gmail.com)まで連絡をして頂けたらと思います。必ず読ませて頂きます。