徒然日記

徒然なるままに日々思ったことを書き連ねるブログです。

なぜ死んではいけないのか?〜石井裕之 沢雉会2018ダイジェスト感想⑤〜

前回の続きです。ラスト10分に起こった出来事を少しお話します。

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質疑応答の中で、僕は石井さんにある質問をしました。簡単に言えば、

 

「世の中には、"善"と呼ばれるものが存在するのか?」

 

という問いでした。

 

いわゆる、前回話をした物質中心主義の体(たい)的な考え方によれば、全てが相対的に捉え、切り分けられるので、正しいものなど存在しない。全ては見方や立場の違いでしかない、となります。

 

一方で、輪郭を付けない霊(れい)的な捉え方をするとどうなのか?人は個人ではなく、目に見えない存在の守護を受けながらチームとして"課題"の解決に向けて生きているのだとすれば、その"課題"が目指す方向はアプリオリ(絶対的)な善と言えるのではないか?

 

これが、僕の問いでした。長年抱いていた問いでもあります。

 

それに対する石井さんの答えは、

 

「絶対に正しいといえるものは存在する」

 

でした。

 

その上で、「ただしい」というのは「正しい」という字で書く相対的なものではなく、

 

「義しい」

 

という字で表す絶対的なものを示すと教えてくれました。聖書によく表れるフレーズですね。

 

今の時代、「正しいものなど存在しない」という見方が主流ですよね?

 

多様な価値観が交わる世の中だから、何が正しいだなんてことを議論するのは無駄でしかない。人それぞれがそれぞれの信じる道をソンチョーしようみたいな考え方が、どこにでも蔓延してますよね?

 

「正しさ」よりも「楽しさ」を追求しようみたいに言われますよね?

 

僕は、そんな世の中の状況に対して、ずっと憤りを覚え、深く傷付いていました。

 

全ては相対的でしかないなというのなら、何をやっても無意味でしょう。なぜなら、何かを成し遂げても、そうでないのだとしても、そこは取り換え可能な存在でしかないからです。

 

卑近な例でいうと、「恋人」というポジションに位置するのであれば、その相手は誰でもよくなりますよね?

 

「かわいい」とか「かっこいい」とか、そういう一定のスペックを満たしていさえすれば、「恋人」となるのは誰でもよくなる訳です。

 

相対的であるならば、その人が"その人"である理由が無くなるのです。

 

そうやって相対的に全てを捉え続ける結果、どうなるのか?最初は「何かを失ってもまた代わりの何かを手に入れられる」とポジティブに考えて行動できると思います。けれども、そのうち全てが虚しくなります。

 

極端な話、死んだら全てが終わりですからね。

 

少なくとも僕はこうした相対化地獄に耐えきれませんでした。その話はまた別の機会にするとして(過去にブログに書いたかも?)も、今、世の中が荒廃している大きな理由の一つが、この「正しいものなど存在しない」という洗脳にあることは間違いないと僕も思っています。

 

敢えて、"洗脳"と書きました。

 

「恋人」が誰でも良い?実際はそうじゃないでしょう?相手との思い出や、注いだエネルギーがやがてはかげがえのないものとなるのではないでしょうか。

 

「恋人」が受け入れ辛いなら、趣味でも家族でも信念でも…何でも構いません。

 

自分が心の底から義しいと信じているものを、きっと誰もが持っているはずなんです。

 

確かに、世の中は見方によって変わる面は多いです。けれども、それら全てを包括した上に絶対に義しいといえる何かがあるはずなんです。

 

そして、個々人はそれぞれその絶対に義しいといえる何かに通じる片鱗を、どこか心の中に持っていると僕は思っています。

 

内なる神性と言ってもいいかもしれません。

 

石井さんが仰ってました。セラピーの現場の中で、クライアントの方が上になることがある。そうした時に上手く論理で言いくるめられて「死んでも良いのではないか?なんなら俺も死のうか」と思わされてしまうことがある、と。

 

学生時代の心理療法家でもある自分の恩師も、全く同じことを言っていました。

 

両者に共通して言っていたことは、そんな状況においては「何かしらの崇高な信念」が無ければ乗り越えることができないということでした。

 

「なぜ死んではいけないのか?」と問われた時に、「死んではいけないからだ」と答えられるか。

 

「なぜ殺してはいけないのか?」と問われた時に、「殺してはいけないからだ」と答えられるか。

 

「なぜ」と問う必要すらなく、それそのものが絶対的に義しいと言えるのだと、石井さんが述べてました。

 

人間には、絶対に義しいと呼ばれる何かが生きていく上で必要であるし、それがあると信じているし、そう思っている。

 

そのように述べた石井さんの姿を見て、僕も安心しました。

 

私ごとですが、それを聞いて僕もとても嬉しかった。

 

十代の頃、悩み苦しみ続けた葛藤を石井さんも抱え、そして、同じ結論(理想)にいたった。

 

その事実が、単純に何よりも嬉しかった。

帰りの電車で一人泣きそうになりましたし、何よりも生きる勇気がより一層湧いてきました。

 

実はこの話題に関しては次回の沢雉会取り上げる予定のテーマであったとのこと。

 

次回というのが実は今この記事を書いている今日です(笑)

 

''絶対に義しい"と呼ばれるものが存在するの信じて指す内容を、より深く聞いて学んでこようと思います。 

 

実験に徴した上で。

 

続く……